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【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 01:43:53
信長・謙信・信玄ら人気武将は研究され尽くしている。
しかし辺境大名の兵力差や戦果の捏造は放置されたままだ。
戦の基本は大軍が勝つという大原則が存在している。

捏造SAランク(伊達政宗)
12万石の佐竹VS80万石の伊達政宗の人取橋や郡山合戦

捏造AAランク(毛利元就)
周防17万石の陶VS安芸20万石の毛利の厳島合戦

捏造Aランク(島津義久)
常套手段である釣り野伏は大軍が寡兵を挟撃→包囲する作戦なのに寡兵の島津が行なう不可思議さ。


2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 01:52:46
大友家臣団
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/i

島津は対して強くない。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 01:57:38
堀は秀吉軍の先陣でスゴイ速さで南下し薩摩兵50人以上を捕虜にした時に邪魔になったので逃がしてやったんだよな。
当初、島津は日向に主力を集結してたが
堀のあまりの神速に、日向戦線を早期に解決して肥後南部へ戻り薩摩防衛しなくちゃならず焦って大戦略が崩壊、
別働隊の秀長軍先陣に無謀な夜襲をしかけたあげくに救援にきた藤堂高虎(1万石で兵500)に翻弄されまくって時間を浪費したあげくに到着した小早川・黒田に挟撃され日向戦線が崩壊し降伏に追い込まれたんだよw

堀は秀吉から蒲生氏郷よりも評価されてたぜ。
なんせ堀は関東で徳川の備え、蒲生は奥羽の備えにする予定だったくらいだからな。
関東なら200万石級大名だぜ。
島津の田舎大名と織田系の首脳クラスの武将のレベルじゃ明らかに織田系首脳クラスの方がすごいわな。
堀を雑魚とか大した事ないとかどんだけ無知なんだよw
ノブヤボしかやった事ないだろw
島津は織田系主流じゃなかった藤堂高虎でも充分に相手できたわけだがw
小牧長久手の戦いでは堀が榊原康政・大須賀康高を破り、
堀が唯一の勝利を秀吉にプレゼントしてるのに。

呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 02:54:51
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1154094080/i
【戦国屈指の】 毛利元就総合スレッド 【策君】

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 12:30:32
たしかに伊達の戦果はまったく信用できないな。誇張というレベルをはるかに超えている。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 14:40:09
個々の大名叩きをやりたいなら他でやれ

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 17:30:29
彼らの兵力に対する裏付けはないな。
一方的に自分らをマンセーしてるだけ。
過大広告や羊頭狗肉だわな。
辺境大名だから興味もないし研究すらロクにやられてないしな。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 18:23:27
石高からある程度動員兵力は推察できるのでは?
もっとも石高誤魔化してたらアテにできんが

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 13:11:42
関ヶ原がたしか旧日本陸軍参謀本部が石高から動員兵力を概算したんだっけ?
なんだかアテにならないが…

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 15:35:19
>>1
間違いない。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 15:38:21
寡兵の島津の陣は厚みが薄く
それをさらに分散して釣り野伏しなどをやるために
軍を分散したら各個撃破されるのがオチ。
よって島津は常に相手より多い大軍だった。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 15:42:36
薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石

明らかに薩摩の国力は他を圧倒してます。
よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です。ありがとうございました。

13 :山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/05/13(火) 18:42:27
>>8
当時は貫高制では。後に記録された時点の石高とどこまで生産量が一致するか・・・。

>周防17万石の陶VS安芸20万石の毛利の厳島合戦
陶というか、大内が周防一国だけだったとは思えないのですが。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 19:11:48
山野ちゃん、このスレ立てたの戦国板でも有名なキチガイだからあまりレスしない方がいいよ

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 19:29:54
>>14
論破された基地外がよく悪意のレッテルを貼るって聞いたけど、あなたみたいな人々を言うのですね。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:57:14
毛利と島津は明治維新における勝者にして日本統治の正当化のため、
戦前までの歴史研究において捏造に捏造を重ね常識化させる事に成功したと言える。
伊達は藩祖があまりにもアホだから必死に神格化した。
政宗は戦えば負けまくり相続時は80万石→60万石まで激減させたDQNで山形館3万石の伊達従属下の傀儡最上の自立を許したばかりか57万石と肩を並べる大名にまで追いつかれてしまった。
たださえ出羽の石高は非常に低いにも関わらずだ。


17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 13:30:38
西国の桶狭間と言われてる島津や毛利の戦いは捏造だしね。ほんといい加減だよこいつら。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 16:13:45
伊達が最強捏造王

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 17:17:37
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1197266689/403
伊達信者発狂www

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 22:16:32
伊達が最上を従属下?
どこの薄ら馬鹿だ?

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/21(水) 00:53:49
伊達が山形館に乗り込んだ際に正室に伊達家の女を押し付けて
さらに最上一族を分断する為に傍流の中野のガキを伊達が擁立したじゃねーか
そのガキが義光の父の義守だろが。
義守と義光が家督を巡る争いした時も輝宗が山形館のすぐ南の上山城主と結んで軍事介入しただろが。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 16:46:54
オマエら難しく考えすぎw
簡単な話なんだよ。単純に周防17万石VS安芸20万石の戦いだよ。
陶は大内義長を自分の手のうちに収めるために手勢を置くだろうし
北九州にも備えが必要だし、内藤氏の内紛でも援軍を送らないとだし
石見にも和睦したとは言え多少の駐留軍が必要だが
毛利は全軍を投入できる。よって陶軍が寡兵で毛利軍の方が多かった。

陶の視点からだと毛利の事をどう思ってんだろ。
郡山城攻防戦の時に隆元とともに陶は援軍を派遣するように大内義隆を説得する助太刀してたし
陶と元春は武勇バカ同士でホモ文通するくらい仲が良かった。
陶が謀反する時は事前に毛利に知らせて同意を得ているし
謀反成功後は毛利に安芸は好きなようにしていいよって言ってる。
陶からしてみれば毛利に裏切られ火事場泥棒される理由が見当たらないんだよな。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 16:58:41
実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。


24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 17:02:25
大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!


25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 18:57:23
ん?勝家が長島で大敗してんのも織田史では隠匿されてたのか?
あれはたしか勝家が殿を努めたが猛烈な追撃を受け旗指物を奪われ大負傷しために
柴田軍が殿を勤められなくなり変わって殿をした氏家直元が戦死したろう。その後の柴田は怪我療養中で動きがない。
相変わらず織田史観では手取川といい柴田に優しいんだな。
と思ったら、今度は秀吉が朝倉2万近くの兵を一人で阻止したって?
当時は信長の後詰めが横山城のいたから朝倉が決戦を避けただけ。
織田厨史観では熊見川の戦い自体を否定して上月城は見捨てただけで秀吉が勢力圏を保持したと主張するし
(実際は姫路に信忠の後詰めがあったから毛利が決戦回避しただけ)
織田史観ってほんと相変わらず柴田と秀吉にだけはとことん甘いよな。
光秀が波多野秀治を騙して和睦を引き出し処刑し丹波平定
細川が娘を嫁がせてから一色義定を謀殺して丹後平定とか全然かばったりしないのに。

それに義昭が挙兵した時でまだ信玄が生きていた頃の信長は進退に窮して
4月5日には正親町天皇から勅命を出させて何とか義昭と和睦してもらってたじゃん。
志賀の陣でも、のちの本願寺との和睦もそうだけど信長は苦戦の末に正親町天皇に頼りまくってるじゃん。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 19:03:07
>>25
信長公記に載ってない出来事はすべてアンチの妄想捏造です。
信長公記以外の史料はすべて一次史料ではありませんので史料的価値はまったくありませんと歴史学者はみんな言っております。
はっきり言って信長は世界最強の天才ですから。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 02:40:23
まぁ織田厨ってのは信長公記しか読んだことない無知ばかりだから他の根拠を出されても論議できないから、
バカの一つ覚えでそういう否定の仕方しかできないんだよなw

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 13:51:27
>>25
佐々成政もまったくかばってもらえてないなw
秀吉と柴田が対立してる時期に佐々が魚津城で景勝らと和睦開城を約束しておきながら卑劣にも騙し討ちして魚津城の上杉軍を大量殺戮しまくってる。
織田軍って信義のかけらもない詐術や約束反故や大量虐殺などを常套手段にする理不尽なヤクザも真っ青な悪魔犯罪集団なんだよな。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 13:27:33
斎藤義龍に信長は最低でも2回は負けてるのに信長公記には桶狭間の後に義龍に負けた話が見事に書かれてない。
さらに信長公記では桶狭間の戦いの日程自体が間違っている。
これは意図的な操作だろうか?
こんなもんを持ち出して当時としては珍しく良質な資料である信長公記に書いてないから信長や勝家や秀吉は負けてないと全否定の主張をする基地外織田厨が多い。
いや公記以外は読んだ事がないシッタカなのであろう。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 02:46:28
信長公記マンセーな織田厨が見事にシカト
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1153157857/757

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 18:38:23
>>12
甲斐親直に負けまくりの島津なんて大してことないよ。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 19:26:33
>>3>>24
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。



33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:27:36
>>32
関が原の戦いで毛利家中が分裂し、統制できなかった理由もこういうところにあるのかもね。
また徳川はそういう西国大名達の弱点を知り尽くしていたと。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:33:47
越後39
越中38
能登21
加賀35-5=30
佐渡1
上野49-34=15
信濃+出羽+飛騨+下野=6
かなり小さく見積もって150万石ってところか。

あまりに小さく見積もりすぎて削りすぎかな???
さすがに上野は削りすぎかも・・・
加賀も削らなくても良いのかも知れんね。
+10の160万石でもぜんぜんおかしくないような気がする・・・

門司城攻防戦
宗麟との同盟軍の尼子軍が後方で侵攻開始し
宗麟が政戦略外交を駆使して毛利を屈服させ香春岳城・松山城・門司城を大友に返却し和議させる。
この際に宗麟は自分から将軍に大金をつんで和議斡旋を頼んでおきながら元就が困って和議を受託しようとしたら
条件を次々に出してなかなか和議を結ばないという卓越した外交交渉をしてのけたので元就の一方的譲歩になった。

1566年尼子滅亡

多々良浜の戦い1569年
宗麟の謀略として大内輝弘の逆上陸が開始され
後方では隠岐国から上陸した尼子残党が出雲一国をほぼ奪回寸前になり
毛利軍は多大な犠牲と苦戦の末に落とした立花山城を大友に返却し撤退。

1571年に元就死去。
1574年山名氏から援助を受け尼子軍が因幡国より出雲侵攻。

1577年織田軍に参加した尼子残党が播磨上月城を攻略


35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:35:52
宇喜多直家は勇武で鳴る三村家親を暗殺し翌年1566年7月には息子三村元親を明善寺合戦で破り
備前西部・美作から三村氏を追い払い備中深くまで侵入し
1568年には撫川城(備中南東)・猿掛城(備中南西)・斎田城(美作・備後国境沿い)と宇喜多の前に次々落城し、
最後の仕上げとして直家の調略で備中の名族庄氏が裏切り備中中枢の松山城の居城を奪われ三村氏は崩壊。
三浦氏(美作西部の有力者)も三村氏より美作西部の要衝高田城を奪還。

1569年元就が対大友戦で長府へ(翌年正月に輝元をおいて元就は吉田へ帰る)
大友との多々良浜の戦いが開始され大友に支援された大内軍が後方の周防国へ上陸し
破竹の進撃を開始しついに山口攻撃を開始し無視できない状況に。さらに尼子残党が隠岐より上陸し出雲一国をほぼ制圧してしまう。
毛利は大損害を出しながら何とか確保した立花城さえ大友に譲渡し九州完全撤退を決意し交渉に入る。
毛利軍が備中猿掛城を落城させるも備中斎田城で宇喜多勢に大敗。毛利方香川春継が尼子・三浦氏より高田城奪取。

1570年2月尼子残党の月山富田城攻略失敗。尼子と宇喜多直家は手を結ぶこととし、
尼子勝久・山中幸盛らは備中より美作へ1000の援軍を派遣し三浦氏を支援し10月には毛利軍を破り高田城は落城。
尼子勢は備中を次々に降し幸山城(倉敷北方)・松山城などの諸氏は尼子に降り毛利方の城攻めを開始しほぼ毛利は備中失陥。
同年に宇喜多配下の花房職秀は荒神山城を築城し美作支配の拠点とする(宇喜多が美作をほぼ制圧完了)
9月に元就重症の急報あり尼子残党を元春に任せ、輝元と隆景は大友の動きを警戒しながら元就のもとへ急行。

1571年6/14元就死去。
8月に新山城で山中幸盛を元春が捕縛するも逃げられる(尼子勢力が減退し始める)
毛利が備中中部で反撃を開始し松山城落城させるも備中幸山城が備中北部を制圧していた尼子に攻められ降服。

1572年毛利の支援で三村元親が佐井田城を奪取し松山城に居城を移す(備中の軍事バランスが毛利方へ)
宇喜多と毛利はこの後も一進一退の抗争を繰り返す。

1574年対織田で宇喜多・毛利は同盟し毛利の背反に激怒した三村氏は織田へ。
1575年毛利が松山城や猿掛城を落城させ三村氏を滅亡させ備中平定に成功。
1576年毛利氏が美作高田城奪取。
1577年宇喜多によって浦上は滅亡へ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:38:25
周防16
長門13
石見11
出雲18(尼子残党が暴れていたが詳細不明につき削らない事にする)
備後18
安芸19
備中17-10=7(尼子残党とそれを支援する宇喜多同盟軍がかなり攻勢に出ており三村滅亡寸前だが元就死去後には挽回し始めている)
隠岐4(尼子残党の拠点になったりしてるので元就時代に領有してたか不明だが+する)
美作と備前(元就死去時はほぼ宇喜多支配下)

毛利元就死去時の石高は106万石
九州(大友の四国侵攻による宇和郡領有による伊予での河野氏支援も含む)と中国東部での無意味な二面作戦という愚策で
東部・西部ともに劣勢に追い込まれるが死去寸前に愚かさを悟り九州から完全撤兵(健康への不安からか?)
謙信が関東を放置し上洛戦で北陸に戦力集中したのと違い元就は戦略変更が遅すぎて宇喜多や大友の支援で尼子残党が巨大化してしまった。
元就死後に中国東部のみに敵を絞り込み反攻しある程度の成功を収めてるところを見ると老害が出始めていたかも。


伯耆(10万石)因幡(8万石)情勢

1564年 西伯耆の要衝たる尾高城は毛利方の杉原盛重が派遣される。

1568年 毛利氏の九州出陣で伯耆の領主たちが九州に赴いた隙を狙って
    尼子勝久・山中幸盛らによる尼子再興戦が開始され伯耆各地を奪回し始める。

1569年 山中幸盛らの尼子残党に尾高城を奪われる(陰徳太平記)

1571年 毛利と同盟して因幡を乗っ取った武田高信が但馬侵入するも山名氏の塩冶高清に大敗。
    西伯耆の浄満原で杉原盛重が尼子氏残党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦う(陰徳太平記)

1572年 因幡国人の大半が山中幸盛側になびき武田高信の大敗で鳥取城陥落し因幡が完全に山名領国化。

    西伯耆と分断された東伯耆の国人の南条宗元は毛利と同盟しているが
    孤立無援の中でかなり苦戦してると思われる(毛利に援軍派遣の余裕はない)

※陰徳太平記は毛利氏によって編纂されているので毛利贔屓になっている。
よっておそらく杉原盛重は浄満原で負けていると思われる。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:42:20
元就死後に元春のがんばりで対尼子の出雲情勢が好転してくる状況で、なおかつ美作国方面はほぼ宇喜多の手に落ちている。
よって伯耆以東は尼子の勢力圏化が進み連絡線も断たれ孤立した各国人が独自の防衛政策で必死に守っており
毛利の軍事プレゼンスも期待できない以上は影響力が皆無に等しく毛利領と見なすのはかなり無理がある。
しかも出雲・隠岐もかなり尼子に蹂躙されているが>>693ではまったく石高を削っていない状況なのでさすがに伯耆分は追加不能。
厳密に計算したら元就死去時の石高は、ほぼ100万石くらいまで落ちる気がする・・・がそんな事したら毛利厨が過小評価だと騒ぎ出しそうだし遠慮しとこう。
>>645>>650
微妙なところなんで謙信の場合はあいだをとって155万石とするか・・・160万石でもおかしくなさそうだがそんな事したら毛利厨がヒイキとか騒ぎ・・・w

やはり隠岐は毛利領から石高削るべきだな
隠岐は現在こそ島根県だから近いように感じが実際は出雲と伯耆の境目の北海上にある。
また山中鹿之助が拠点を置いていたのは新山城といい松江市の北だ。
とするとさらに背後にある隠岐はまだ安全圏だろうし新山城の位置から万が一には隠岐に脱出するルート保全もあったと思われる。

ちなみに羽柴秀吉の中国遠征軍(てきとうに概算)
播磨35万石
但馬11万石
因幡8万石
伯耆10万石のうち東部3郡羽柴方の南条6万石
宇喜多備前22万石+美作18万石
合計100万石

あーもう石高で同等に追いついちゃってるよ・・・
これじゃ毛利軍はどうあがいても100%かなわないわ。
そういや他にも近江長浜からつれて来てる兵や信長からも与力つけてもらってるし
淡路6万石
長宗我部に侵攻され滅亡寸前の三好讃岐領もあるんだよな。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 02:07:25
信長公記に書かれている
斎藤義龍が范可と署名した時期がおかしい。
また范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが
そんな人物は唐はおろか史記など過去に遡っても見当たらない完全な捏造話である。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 04:44:52
毛利元就200万石って大ウソなんだな…85歳って天下統一した家康の年齢と同じだけ生きたのに50歳過ぎでやっと安芸一国統一レベルじゃな…

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 23:00:36
昨年の歴史読本6月号だったか!? 
に歴史学会の新説についての特集が
あり、そこでは厳島合戦での陶軍の
兵力は8千人との新説が紹介されていた!
それによるといままでいわれていた2万
の兵力は陶側が各地の戦線に配置した総数
とのこと(いわゆる桶狭間の今川軍が2万
5千人中の5千人のようなもの)

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 12:52:57
戦国最末期の佐竹
当主佐竹義宣11万石
隠居佐竹義重1万石
叔父佐竹義久1万石
その戦力の大半が対北条に備えていた。
伊達政宗の家督相続時は80万石
佐竹は常に伊達を圧倒しまくった。
どんだけ弱軍だよ伊達って。

のちに越後から会津に移った上杉は関ヶ原の最上戦線で苦戦。強兵の越軍ではなく米沢や福島の伊達旧領の新兵がむちゃくちゃ弱かった。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 17:15:38
過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。

何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。

折敷畑合戦はなかった
tp://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。全部で五通あるが、
そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 17:42:45
有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。


44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 17:47:11
>>43
安全圏の伊達領の政宗は自領の心配はまったくせずに良かった。
田村は一人娘を政宗に嫁がせ男子が生まれたら田村の世継ぎに欲しいといった状況で、いつも被害担当みたいに毎回、政宗のせいで佐竹や葦名のフルボッコを防ぎ続けた。
政宗は無能だが防波堤のように踏ん張った田村がスゴイってのと同じだね。


45 :焼肉+ ◆JUU/.JUU/. :2008/06/02(月) 21:31:38
どうでもいいが、元就や家康の享年は75じゃなかったか。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 02:14:45
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。

南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 07:19:26
安芸の武田光和は確かにすごいね。
早死にしてなかったら毛利が滅亡してたかも知れん。
強いと言えば相馬もお見舞いで三春に行った時に伊達の騙し討ちで重臣多数が銃撃され弱体化する前はやたら強かった。
最上義光の異常な拡大もスゲェ。
佐竹や葦名から伊達を守り続けてフルボッコされまくった田村氏の頑強さにも驚かざるおえない。
その佐竹も北条の大軍相手に鬼追撃をかけたりと余りにも精強過ぎる。
信玄や謙信の強さはもはや神レベル!
だが由良氏も悪魔レベルの抵抗をしてるな。つか金山城の鉄壁ぶりは特筆すべき。
石山本願寺も大阪城の原型だし地の利は得てるな。
大友宗麟も家督を譲った後の二重権力の混乱とキリスト教狂い以前は鮮やかな外交戦で完璧に毛利を押さえこんで覇権を確立してたな。
阿蘇氏を支え島津をフルボッコしまくった甲斐宗雲もかなり強力!

戦いってのは相手の失敗や不幸に乗じて突き崩す事に他ならないが以上の大名にはあまり隙がなかったと言えるな。


48 :視点論点:2008/06/03(火) 17:11:56
視点論点

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 18:58:20
周防も安芸も同じ瀬戸内海だから平等な土俵じゃないか。
水運経済は水軍に依存しており毛利だって小早川水軍を持ってたから通行税やら湊使用料を同じように取ってたろう。
だったら差を分けるのは地力
瀬戸内海があるから比較できないなら琵琶湖水運があるからとか日本海貿易があるからとか伊勢湾があるからとか河川流通があるからと何一つ比較できないだろが。
毛利厨だけがそうやっていつも逃げるんだよなw
陶は大友にもある程度備えないとだし
大内義長が拉致られないよう兵を置かなきゃならん
長門の内藤氏の内紛にも兵を出し介入し自派に勝って貰わなきゃならん。
石見で苦戦しまくり和議したものの破棄して背後を襲ってこないようにある程度の兵を置いて備えなきゃならん。
安芸に振り分けられる兵力なんてごくわずか。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 19:01:17
>まず義長が大内にいるのに大友に備えてというのは不自然。 これでは義長がいる意味がない。
それと大友義鎮の書状で「義長に援軍頼まれたけど毛利との約束で自分は泣く泣く弟を支援しなかった。
その辺のことを考えて、九州の大内領は大友が継承するのを認めてね。
あと秋月とか筑紫が反大友で騒いでるけど支援しないでね。」みたいな文書が残ってる。以上から大友に備えてと言うのは不自然
→これは大友が義長を犠牲にして毛利に内通してることを現しているって事です・・・
それに基地害になった陶は野上房忠に命じて筑前守護代杉興連を殺害し豊前守護代杉重矩も殺したり宗像騒動で北九州情勢は不穏です。

>義長が拉致されないようにと言うけど、厳島合戦に参加しなかった多くの大内氏家臣や内藤隆世は守ってくれないわけ?
→ 娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する五男・隆春派と内紛中で山口にまで抗争は波及してます。

>毛利だって尼子に備えて兵を置かなければならず、宍戸隆家が残ってる
→石見も備後も大内領国化していて安芸は安全圏になっている。
尼子晴久の戦力集中は東側で1551年〜1554年に渡り備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出
1553年4月備後北部の三次盆地に勢力を持つ江田氏は毛利氏を中心とした大内氏方国人の攻撃を受けた。
江田氏を支援するため、晴久は自ら備後国高へ出陣して萩瀬にて毛利の援軍の陶晴賢率いる大内軍と激突したが勝敗つかず、
10月には江田氏の居城・旗返山城は落城し山内氏も大内方へと下った。尼子側国人宮氏も滅亡し備後は大内氏側へ。
1554年新宮党を謀殺する。この年の前後には相変わらず浦上氏と敵対し尼子の戦力は備前へ。
1555年に厳島合戦により石見の大内勢力が大減退によりやっと尼子が石見に再進出。
1556年に毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。


51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 19:02:26
>毛利は安芸の大内陶派を討って安芸をほぼ統一したのが厳島の数ヶ月前
1年ほど前までは安芸の中枢部沿岸部はほぼ大内の支配下にあった
→元就が尼子から大内氏に寝返ったときに、大内氏から広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっている

>対する陶は、当主義隆を討った後に家中をまとめあげ、更に大友家から当主養子を
迎え実質的に九州からの脅威を排除するという政治的センスもある男
→陶は北九州を混乱させ恐怖政治の殺戮だけでなく無能の石見守護代の問田隆盛を信任して
石見の吉見正頼の謀反が鎮圧できず津和野三本松城の戦いなどで陶自らが周防から遠征し大苦戦し実質敗北の失策続き。

>毛利の影響下にあるのは山間部ばかりって言えるし
→山間部でも相当な収益を上げていました。毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する権益を井上氏は持っていた。
吉田は出雲街道の要衝にあり石見銀山や石見、安芸の国境地
帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が
多く駒足銭の徴収権は重要な経済的な権益だったが井上を滅亡させ元就は横領した。
また正妻の実家である吉川氏を奪い貴重だった鉄の生産地も手に入れ(謙信も毛利から鉄を買っていた)
元就は高橋氏に出した人質の娘を見殺しにして高橋氏を滅ぼし木材売買も手に入れた。

>大内全体の軍事指配を行っていた西国無双と呼ばれた陶
→陶は実力でのし上がってきた男ではありません。少年時から美男で義隆に寵愛されただけ+父の威光の七光りの無能。
直情型で独断専行な性格で文官の相良武任との政争に負けた挙句に追い詰められ破れかぶれの無計画な謀反です。
陶は主家殺しで疑心暗鬼になり片っ端から有力大内家臣団を虐殺し自らまわり中に敵を作りまくり自爆した。
末期症状で自分の領国の周防さえ満足に統治できなくなってたろう。
陶の主力となった元就をよく知る勇将江良房栄の殺害を安芸守護代弘中隆兼に
身の潔白を示すために殺せと命じ軍のさらなる不和を演出w
さらに慎重論を進言し再三諫めたら弘中隆兼を臆病者呼ばわり。
渡海後に弘中隆兼が武王の例を引用し宮尾城の準備ができてないので運気や占いを信じずに今すぐ落城させろと
陶に進言するも大凶日は休戦日として軍備を解き無駄に日数を費やすアホぶり。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 20:20:51
それコピペだぞ

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 15:33:19
朝鮮出兵で鬼島津と呼ばれ恐れられたって話に根拠はありませんw
大陸で鬼と言えば幽霊…討ち死にしてバケて出た島津(笑)って意味になります。
鬼=強いって使い方するのは日本人だけで明らかに島津の自称w

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 03:16:18
中国側の資料で大敗したとあんだろ。この板はドリーマー多いな。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 15:17:45
保守

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 18:29:59
信長公記に関しては天正3年以降の日付はかなり正確になってきたが
それ以前の日付などは間違いも多いし
信長公記の内容も天理本とか池田献上本などいろんな種類によって内容が違かったりするからアテにならんし2ちゃんに書き込みしてるやつで
たまに信長公記を引用してるやつはどれの翻訳から引用してるかも分かってないデタラメ。
そもそも巷で織田マンセー研究者が一次資料と喚いているがちゃんとした史実家はあれを一次資料とは呼ばない。


57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 19:20:09
厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した。
まったくの大ウソ

宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、
1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。
しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかり。
どう考えてみても周防からの動員数しかいない。
毛利の記録はウソばかり。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 19:28:38
厳島合戦で毛利が勝ったのは
能島村上水軍が陶
因島村上水軍が毛利
そして来島村上水軍がどっちに付くかで毛利は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。
瀬戸内海の水運権益を手放して大幅常歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。
毛利は何もしてない。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 21:46:37
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 14:28:50
>>43
毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/10(火) 16:27:31
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は40以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。

他にもいろいろ載ってますので興味ある方は歴史読本8月号のバックナンバーを買おう!






62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/13(金) 14:53:53
伊達厨・織田厨・毛利厨は
まとめて精神科に行かなければならない重症患者だとよくわかりました。


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/13(金) 15:02:46
>>32
島津の上井覚兼の日記は
完全な一次資料だから占いで戦略を決めていた話は否定できないよね。


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/13(金) 16:55:38
なんか難民って感じだな
各スレで相手にされなくなった人達がって感じで

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/13(金) 17:24:12
しかし書いてる内容は素晴らしい知識力

66 :たられば君:2008/06/14(土) 09:56:07
デタラメだの捏造だのと判断している基準が好き嫌いで決まる小学生低学年レベル。
研究者を気取って周りを不快にさせるくらいならファンタジー歴史小説でも書いてた方がいい感じ。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 21:51:44
しかし間違ってはいない。
最近の学説を書いているし。
書かれてるものもファンタジーではないし。


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/15(日) 03:02:04

上杉・武田最強


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/15(日) 15:53:57
このスレだけなぜか講談ではなく学術的な事実が書かれてるな

70 :たられば君:2008/06/15(日) 16:47:25
猿楽の大蔵彦十郎ねえ・・・
大久保長安は迷惑してるよねたぶん

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/16(月) 01:16:58
後北条と上杉の川越野戦はひどすぎないかな?
落ちぶれた上杉にあの人数は普通無理だろう

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/17(火) 13:31:35
川越夜戦は捏造なのは有名

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/20(金) 01:30:28
長州藩にも小早川隆景と大内義隆が衆道関係を自慢する記述がありますが毛利厨ってなんで衆道を否定したがるんだろ。。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/24(火) 06:00:25
別に否定はしてないだろ。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/05(土) 00:30:40
442:人間七七四年 07/05(土) 00:00 GDTejgsP
最近の資料では耳川の戦いは大友軍(日向方面軍)4万3千人に対し、
島津軍は4万9千人プラス高城兵3千人と大友軍に勝る大軍を動員して
いる。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 05:54:28
三好厨あげ

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 05:56:44
813:人間七七四年 2008/07/12(土) 02:49:28 ID:Y0UvPWxx
僕は本当のところ何も知りません。でも元就が好きで負けの事実があったことすら我慢ならないんです
でも、それすら知らなかったなんて元就好きの僕は口が裂けても言えませんし
何より他の人から見て
「あっ。いつもの三好厨がまた無知曝け出して教えてもらってるよw」
と思われるのが、とても悔しいので素直にお願いします。と言えないのです
どうか、こんなバカな僕の気持ちを汲んで、元就の大敗した戦を教えて下さい


・・まで読んだ

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 06:02:02
>>1
一々宣伝するな死ね!!

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 06:07:56
このスレは三戦に占拠されました、なりきりレスと糞レス以外は書き込めません、、、、、

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/17(木) 19:30:18
>>66
俺はかつて、某歴史研究会の幹部で誹謗中傷にかなり力を入れてる人と交友があったけど摘発(法的手段以外の制裁も含めて)の話を聞いたら身の毛が逆立ったな
冗談抜きにマジで人生終わる、法的に大した傷は追わなくてもまず間違いなく業界流の制裁を加えられる
またはそれ相応の代償を支払わなければいけない
本当、割に合わないと思ったね
おまいら、書き込むからにはそれ相応の覚悟をしてやれよ、昔から歴史研究会と金貸しは裏でどんな連中が仕切っているかわかってるだろ?
幹部たちはプロだから警察とのパイプも持ってる、様々な状況に対応できるように仕込まれてる、だからこそ幹部になれたとも思えるがね
妬みひがみやで書き込んだために、ズドンされた時に泣いただけじゃすまない事を憶えておいた方がいい

ちなみに俺は同業者とかじゃないからな

なんか脅しみたいになってすまん、つまり言いたい事はおまいらが思ってる以上にハイリスクだってこと




81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/14(日) 08:01:37
>>80
バカw
君はソビエトや北朝鮮や中国で歴史を学んだのかな?
言論狩りと勝者の一方的な捏造歴史のおしつけをいまだに定説と思ってる古老ですかw
蒙昧な方ですな

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/15(月) 02:49:56
>>81
これコピペだよw
歴史研究会のところを、ほかの組織に変えるといろいろ流用できる。

まあ、このスレの流れ自体どこか気持ち悪いのは事実だが

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/06(木) 18:24:10
改易されて記録がまともに編纂されてないので
薩長肥によって不当に貶められている大友宗麟。
江戸明治歪曲捏造史観に騙されるな!

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 17:12:11
信長公記の斉藤道三の記述はウソ
六角氏の記述した道三2人説の方が史学では支持されている。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 14:33:40
信長公記と六角氏の記録だと
六角氏の家督などもまったく違うんだよな〜。
信長公記を真実とすると、斎藤や六角の記録の大半を闇に葬るしかなくなるくらい激しく食い違う。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 20:43:32
なんかキチガイが立てたらしいが
とりあえずカンネーの戦いは少数の軍が包囲殲滅戦を行い
大勝したんだよと教えてあげよう。
あと佐竹の石高まちがってるし。


87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 09:18:07
西洋の戦史は本朝の国土自然伝統文化や動員力とは違い過ぎて比較する意味はまったくない。
日本は山々や河川ばかりで万を超える大軍同士が展開できる地は少なく包囲戦自体が起きない。
佐竹の石高は佐竹スレでの論争の結果である。
ちなみにカンネーではなくカンナエの地で起きたからカンナエの戦いであり、優勢な騎兵による包囲が動揺を引き起こしパニックが生じ自滅したもので本朝に類似する点はない。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 01:58:21
カンネとも表記するね。
日本語表記は正解はないのに粘着するのは馬鹿っぽいのでやめな。
山がちならよけい大軍が負ける可能性たかくなるやん。
山ならさらに戦術が生かせる
カンネは平原なら大軍が大抵勝利するのに作戦で勝てるという話

ちなみにパニックを起こしたから負けたのではない。
主戦力のローマ歩兵が無力化したから。
中央突破が失敗した時点で敗北はほぼ決定。
騎兵の包囲は全滅を狙うためと陣の弱点を攻撃するため。

平原でさえ軍の数を戦術でまかなえるのにやまがちな場所ならなおさらである。
日本と違うといっても関ヶ原の半分くらいの動員力。人間のやる事に凄い違いはない。

大体君のパニック説が正しいのなら大軍がパニックを起こして負けた富士川の戦いは捏造でなく
戦術で戦力比は関係なく戦争の勝ち負けが決まる事がある。
つまり戦術により大軍が負けることはままあるとなる。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/22(金) 13:33:36
沖田畷の戦いは島津の捏造。
実際は有馬晴信が宣教師やキリシタンが多大な援助の元で戦っている
最新大量の鉄砲が提供されており、龍造寺撃破はこれらの威力によるところが大きい。
朝鮮出兵でも有馬の軍は南蛮式の武器も船も最新鋭で他の大名達がビックリしてる
当時の有馬氏は南蛮貿易ですごい金持ちだった
島原の乱を起こすだけの余力がこの地の民衆にはあったのだ

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/27(水) 18:47:39
>>89>>87かい?
いい加減馬鹿な事いうのやめな。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/30(木) 19:23:35
大友の大戦略シナリオの通りに操られた島津は
大友の想定通りに都合よく蠢き続き、迷走自滅した。
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/232
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/233


92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/31(金) 12:32:02
島津は実際、むちゃくちゃ弱い。
一見すると派手に見えるから厨房の目は誤魔化せるが、政戦略が欠如してるから労多くして利少なしなんだよな。
毛利に続いて島津も大友蟻地獄に完全にハマってたな。


93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/31(金) 12:44:04
高みの見物をする大友は外交力を用いて、
夷には夷を以て制するが基本姿勢だからな。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/18(火) 22:35:30
大友<宇喜多<島津<毛利

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/09(水) 12:04:38
日本鬼子と言ったら中国人が日本人に悪口を言う時の蔑称
島津鬼子と言ったら中国人が勇猛な島津兵を恐れと畏敬の念から発した言葉

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/17(木) 01:52:33
237 :人間七七四年:2009/04/13(月) 09:32:14 ID:y5abqY9Q
鬼の高利貸し北条が善政なんてw
しかも破綻民衆が流民化する危機に
徳政令を発布せざる負えなかった。
最初に直轄地以外で徳政令出させたが、
高利貸し達から非難ばかりが来たから、次の北条直轄地では高利貸し元締め北条の徳政令の内容が大幅後退した内容になったしwww

314 :人間七七四年:2009/08/10(月) 12:53:03 ID:Ve0WGNdk
北条は度重なる徳政を行わなければならないほど民を困窮に追い詰めていた。
中世の徳政とは、善者の積極的施しではなく、
徳政しなかったら暴動起こすぞ!施ししないならお前ら殺してでも強奪する権利がこちらにはある!
と言う強迫力を民衆はもっていて力ずくで実力行使に出ると言うことを内包していた。

54 :人間七七四年:2009/05/06(水) 20:45:05 ID:BFlw7MB3
トイチを超えた高利貸し失政が元で永禄2年末〜3年の間に氏康が引退せざるおえなくなるほど民衆が不満ピークになったんだよね。
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1186064619/61

67 :人間七七四年:2009/08/08(土) 10:13:10 ID:S64ivuT4
>>61を見ると天正期にも北条領は徳政を出すほど民衆は安定してなかったのか…
永禄初期には氏康は民衆の困窮の責任を取り隠居したって言うし
越後甲斐は天候不順だった記録はあるけど、関東平野にそんな記録はないので、氏康が民衆の困窮を無視して上野侵攻したりと戦ばかりやりすぎの人災なんだろうね。
氏康って上杉や武田が侵攻してくると民衆を見捨てて小田原に籠もるのはどうかと思う。
北条って春に民衆が金を借りて、秋の収穫時期(三島大社の酉祭)が返済時期なのに、民衆はさっそく返済できなくて質流しされてるよね。
武士階級が刀や鎧を質に出して流されたり。
少なくとも越後や甲斐は敵の侵攻はないわけだから、北条領より生活は良かったんじゃないかな。
それに越後は田で米を作る人々より、塩作りに多くの人々が働いていたけど、これはある程度、天候不順でも何とかなる商売だし。
また服の材料になる植物は不作であれば、京ではそれに応じてより高く買ってくれるほどの需要があった。
そういう交渉も謙信がやってくれた。
北条は善政って言うけど越後領民からしたら生活が安定した?北条領へ逃げるなんてバカなことはしないと思うし。

68 :人間七七四年:2009/08/08(土) 16:45:05 ID:S64ivuT4
北条の証書を作っての高利貸し体質は裏切り謀反防止や、
敵勢力の内応に有力な手段となった。


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/17(木) 01:54:58

73 :人間七七四年:2009/08/10(月) 07:20:20 ID:Ve0WGNdk
>>72
良民を放棄し自らの命を惜しんで逃げ回って隠れるヘタレ北条の致命的な無能さは大罪に価するな!

145 :人間七七四年:2009/05/29(金) 23:02:33 ID:IRsz9UBN
>>135
不当な高利貸しだったので、民衆からまったく支持を得られず
信玄や謙信と野戦決戦するだけの士気が無く、さらに兵力を集める事もできなかった。
北条の支配拡大は金の貸し借りが力の源泉で言わば地上げ屋であり、借金をカタにした領地の巻き上げ。

148 :人間七七四年:2009/05/31(日) 10:33:14 ID:u9lqE3Gn
>>146
遺臣が再仕官のために書いた軍記以外に
伊勢北条を誉める記録が皆無なんだよね。
後北条の呼び方もおこがましい。

158 :人間七七四年:2009/06/13(土) 12:43:48 ID:e2XeZNiT
まぁ北条なんて単なるこそ泥レベルだよな
関東管領山内上杉を弱体化させたのは長尾景春だし
扇谷上杉を降伏に追い込んだのは長尾能景だし
山内上杉を崩壊に追い込んだのは長尾為景だし、氏綱はその為景に媚びて贈り物を贈って拒否られたりしたもんな。
主戦場は上野や武蔵で相模なんて重視されてなかったし。
長尾一族ではもっともレベルが低い謙信ごときに苦戦するようじゃ北条はたかが知れてる。

47 :人間七七四年:2009/04/28(火) 20:51:35 ID:cE4RvpxQ
後北条の悪政のために、相模や武蔵に後北条を祭るような催しは基地害小田原市以外にない。
むしろ相模や武蔵は執権北条氏の業績や上杉家の重臣の太田道灌の業績こそ評価している。

下記は後北条の悪魔支配
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1234172504/330
55 :sage:2009/04/29(水) 07:21:35 ID:1j2FDi52
>>47
民衆に鬼高利貸で搾取しておいて
武田や上杉の小田原侵攻では
民衆を見捨てるとかどんだけ…

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/17(木) 01:56:57

101 :人間七七四年:2009/05/10(日) 04:06:28 ID:0GO+oSGL
>>55
天正12年簗田領の民が北条高利貸し金融に破綻に追い込まれた。
高城胤則
「おいコラ北条!簗田んトコの民に米を貸してやったんだが、奴ら徳政が出たから返さなくていいとか言ったぞ!ふざけた真似すんなや」
高城文書10/16北条「簗田領だけ徳政を出すわけないじゃないスカっ!むしりとってください」
民衆「何が徳政だよ騙された…」
天正13年いつものように再び北条の高利貸し政治で民衆生活が破綻。
ここ武蔵国は小机城の河輪郷では領主の北条氏規に困窮を訴え徳政をもらった。
高利貸し業界が実質的支配する北条氏に対して河輪郷に金を貸していた鈴木氏が怒り狂って文句を氏規に言ってきた。
「おいコラ氏規!河輪のバカどもがお前が金返さなくていいとか言ったって言ってんぞ。お前が代わりに払うんか?」
鈴木文書12/13氏規「あ、すいません鈴木殿。民衆のウソです。まさか私がそんなこと言うわけないじゃないっすか」
民衆「また北条に騙された(涙)」
まさに悪徳北条金融の恐ろしい手口で民衆は泥沼。
102 :人間七七四年:2009/05/10(日) 04:41:41 ID:0GO+oSGL
高利貸し「山内扇谷上杉はワシらの貸付金をちゃんと保護しねーから使えねぇ」
北条「民衆にはキツくあたらないとだよね」
高利貸し「おっ!わかってんじゃねーか。よし北条を支援して上杉を追い出そう」
こうして関東は民衆が悲惨な目に合う暗黒時代を迎えたのです。
関東でいまも尊敬されている人
上杉憲実 長尾景仲・景信親子 太田道灌
小田原市だけが観光収入の為に北条をマンセーしてるだけ。
103 :人間七七四年:2009/05/11(月) 10:56:14 ID:IDVgEDcl
北条は領民や国人を搾取する高利貸しの既得権益を擁護しまくってるじゃん。
徳政なんて領民への単なるポーズで実際は骨抜きにされてるし。
だいたい北条直轄地で徳政やる前に、直轄以外で実験で施行して非難轟々になり、
びびった北条はのちの直轄地でさらに高利貸し有利に法を曲げて施行してんじゃん。
121 :人間七七四年:2009/05/14(木) 09:29:08 ID:OXIIwaQg
ほんと北条はクズだな。口先では「善政やってるよ。でも国人とかがクズだから俺の政治が行き届かないだけなんだよ!だから俺に協力すべき。異論は認めない。」
民衆「うそつけ詐欺トイチ野郎!」
123 :人間七七四年:2009/05/14(木) 10:12:10 ID:OXIIwaQg
覇業の地関東で唯一失敗した者は後北条のみ
なぜなら外資系ハゲタカ金融の悪行で関東を搾取したから。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/17(木) 02:01:35
140 :人間七七四年:2009/05/15(金) 06:43:33 ID:NUZZRq7H
>>129
江戸期も百万石なんていくわけないし、収入をはるかに超える借財を抱えてた破綻財政が仙台藩の実態だった。
そもそも政宗生前から江戸の空堀作りや高田城築城の使役や普請をたくさん命令される集中イジメを受けていたから、
政宗死去すぐに幕府から借金してるし。今度は空堀を水堀にしろ橋をかけろと嫌がらせを受ける始末。伊達騒動まで引き起こさせられたしなw
いまの中央線の脇に大規模な川があるが、あれは恐ろしく多額の借金をして伊達が作らされたもんだ。
>>133
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1234172504/349


100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/17(木) 02:03:42

36 :人間七七四年:2009/07/08(水) 15:07:21 ID:5YopciW6
毛利の体質
五大老時代の毛利藩の税率は73%で
太閤検地での平均67%にくらべ6%も高い鬼税率で民衆を収奪していた




101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/18(金) 13:11:06
アダムス(三浦按針)によって主導された家康の造船は80トン→120トンと技術ノウハウの蓄積により巨大化していった。
その造船工たちを派遣して政宗に作らせただけ。まさか政宗が摩訶不思議な能力でいきなり遠洋航海用500トン級の造船ができたとでも?
ほんと伊達厨はアホ。 しかも家康が散々に冷遇してやって日本嫌いになっていたスペインのビスカイノの帰国で航海に連れていく破目になるから
家康には失敗するのが目に見いていた。

家康が船手奉行の向井将監や公儀大工与十郎などの技術者を仙台藩に派遣させ政宗に大金(造船工800人、鍛冶工700人、大工3000人)を使わせてサンフアンパウティスタを強制的に造らせたり、
しかも政宗は江戸の空堀を掘らされ橋の改修までさせられ20万両以上の出費をさせられた(仙台藩の歳入3年分以上)
幕府を恐れた政宗は家康死後に日光東照宮の陽明門下の南蛮鉄灯篭は政宗がポルトガルから鉄を運び込んで造らせたものだし
政宗は秀宗に対して、貸した三万両を是が非でも返せと督促してるし。
借財の返済をしつこく迫り、政宗の収入源に追い込むことに成功。
のちにこれが宇和島藩の御家騒動に発展し改易問題になるなど
政宗の放蕩三昧で、すでに仙台藩は破綻状態だったとの指摘もある。
それに宇和島での親子対決で政宗は幕府に介入される前に自分から改易を願い出るくらいムチャクチャ幕府に恐怖してるし。

能などの舞台にあがって観衆に金バラまきまくって基地外のように暴れたりしてんだろ。
参勤交代が制度化される前からやたら江戸にやってきては派手な生活送ってたし、諸大名に対してやたら競おうとして見栄を張りまくり、
超デブになるほど珍しい食べ物を遠方から取り寄せて…そういや片倉を糖尿病で殺したね。
だいたい仙台青葉に当初計画で江戸以上のデカい縄張りを計画するなど悪趣味過ぎる。

仙台藩は上記の状況なのを考えないで湯水のごとく金を使う政宗の節約しない放蕩生活のせいで破綻したんだよ。
だから死後に財政破綻し滅亡同然の仙台藩は幕府に借金したわけ。
残念ながら政宗が領内を大開発し石高が上がり豊かになったとか完全に大ウソだから。
放蕩三昧生活を繰り返し、政宗死の翌年に仙台藩は財政破綻→成実が幕府官僚に土下座して銀五千貫の大借金をするハメに。

くだらん嗜好で騎馬鉄砲隊なんて役にたたない無駄装備や、
見栄を張り背丈に合わない事に近江穴太衆を高い金を出して呼び寄せて青葉城を中途半端に石垣にしたりと
幕府から使役されてる実情を鑑みない…確実に算学や財政を理解できない政宗のくだらんハッタリ趣味の浪費なわけだが。
高田城を見ると伊達に石垣を築く能力は無いね。 政宗は、越後高田城の普請のほぼ全てをやらされたりと幕府からイジメ抜かれたよね。
仙台は近江の穴太衆に作ってもらったが、田舎くせぇ尾根がくっついてる中世山城なんて古臭い城を造ったし政宗は低脳過ぎ。
弧山に平山城を作るなり、平城を造ってる時代に山猿政宗は50年遅れており、時代のトレンドから外れまくってる。

幕府の政宗フルボッコ政策での江戸城普請、神田川掘削、日光東照宮の改築はまさに真綿でゆっくり確実に政宗の首をしめていた。
さらに対伊達恫喝要員の相馬や新庄に移封してきた戸沢は幕府に保護されて強大化してくるし、
政宗が土下座して必死に百万石の約束を頼んでいた本多正純は最上改易に利用されて失脚。山形には鳥居がやってきて伊達包囲も完成。
政宗死後も、さらに伊達空堀の水堀化工事や大船が通過できるように拡張工事、
日光東照宮の改修で仙台は財政破綻状態にさせられ続け、ついには伊達騒動を引き起こし、幕府に介入監視され実質滅亡状態を維持させられ続ける。
ついには仙台藩は藩祖政宗時代からの慣例だった参勤交代コースを変更し、足利氏の領地を迂回する経費削減までやったからな…
政宗死後も搾取されまくって、特に伊達堀の水堀化工事負担は酷いもんで、綱吉時代だったかに仙台藩は膨大な借財のためについに版籍奉還したいって幕府に言い出したよな。


102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/19(土) 12:21:14
破綻してる仙台を省みず舞台にあがって金をバラまくとか
どんどん派手で奇矯な振る舞いをするようになり、基地害化が激しくなるのは政宗がすでに秀吉や家康や幕府に精神的に追い詰められて鬱から精神の破綻に堕ちたとする話もあるね。
秀吉への答弁などもマトモな人間の返答ではなく、秀吉も政宗がマトモな精神状態じゃないから許してやったらしい。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/19(土) 14:53:37
>>100 その頃は 毛利藩なんて変な日本語は無いのだが。


104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/21(月) 11:37:09
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】

百姓役をしてる者への徳政とは名ばかりの恐ろしい北条高利貸し制度
安い金を貸して質に取った物は、三島の秋の収穫たる酉祭が返済と質流れ期日にするが、
伊豆三島暦や武蔵氷川暦や甲斐暦の違いをうまく利用して
質品を勝手に流してシカトする高利貸有利なシステム。
天正17年に借金で困窮していた武士で足軽衆の統率者根岸が
高利貸をしていた関宿城番の恒岡越後守と太田下野守に借金の質に鎧や馬を預けた。
取り戻そうと氏政に訴えたが、太田や恒岡ら高利貸の肩を持つ氏政に、
質品はもう流れてねーから知らんわと却下される。
それ以前だが天正11年に、古河公方の奉公人が運ぶ荷物や馬を北条側の足軽達が山賊行為で強奪。
足利家が氏政に訴える。 氏政はちゃんと返させるからと言って根岸に通達。
しかし何度も請求しても返してくれない。 交渉して栗橋城奉行の布施美作守から文書発給してもらったら、
偽馬や運び手は返すが荷物は返さない。 偽物はいらないちゃんと返せと言ったら、
ついに本性を剥き出して、お前らに返すものはねーぞゴラ!交渉打ち切り何も返さねぇと逆ギレされる。
武士階級が困窮し盗賊と化した北条領の現実。 永禄4年の景虎の小田原侵攻時に、
失政が原因ですでに引退に追い込まれていた氏康が
「氏政がまだ若輩なので再度国家之意見」を吐いて復権したが農民らは死ね銭狂い高利貸野郎と呪ったろう。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/21(月) 11:41:41
>>川越夜戦など 三千vs八万 という壮絶な戦闘を勝ち抜いており、
>>二十万だからといっても過去の経緯から見れば
>>絶望的な数字ではなかった。

もう少し真剣に話しませんか?
河越夜戦とは
(1)関連文書が皆無であり、河越夜戦があったことを裏づける信用できる史料がない。
(2)大合戦にはつきものの信用できる感状もない。
(3)軍記物の記述はそれぞれ相違しており、敵味方の陣地の記述もまちまちである。
(4)天文6年(1537)7月20日に討ち死にしたはずの難波田弾正が再度登場している。
(5)『北条五代記』の合戦の記述は夜戦ではなく、日中の戦いの描写である。
(6)戦いの時期の記述がいろいろあるのも不思議であり、これは同一の大戦争ではなく、いくどかあった戦いを編集創作したものであろう。
(7)元来、合戦に慎重な北条氏としては、理屈に合わないところがある。味方に十倍する戦いを北条氏が仕掛けたことは理解にくるしむ。

小牧長久手の戦いの時に北条は由良長尾兄弟を騙して小田原に監禁し新田・足利へ出兵していた。
家康はその分を援軍にまわして欲しいという気持ちもあってか
皆川広照から頼まれて由良長尾兄弟を返還するように使者を送るが北条はこれを無視した。
そして結局家康は秀吉と和睦せざるを得なくなる。
こういったやり口の汚さと大局眼の無さゆえに家康から見捨てられたんだろう。

越後に景虎?他にも甲斐に人質に出されたヤツもいる
氏規と氏忠だと言われているが、北条は自らの子さえ人質に出す非情な家。
さすがは高利貸しを生業にしてるだけある。
子供がいくら人質になろうと族長さえ無事なら変わりはいくらでもいる罠
高利貸し北条組が族長のためにガキが棄駒の犠牲になるのもやむを得んわフフフ
鬼の高利貸し北条が善政なんてw
しかも破綻民衆が流民化する危機に、徳政令を発布せざる負えなかった。
最初に直轄地以外で徳政令出させたが、高利貸し達から非難ばかりが来たから、
次の北条直轄地では高利貸し元締め北条の徳政令の内容が大幅後退した内容になったしwww

北条の表向きの税率なんて空虚なもんさ。実際には臨時徴発という名の収奪が多いから農民の逃亡が相次いでるよ。
不当な高利貸しだったので、民衆からまったく支持を得られず
信玄や謙信と野戦決戦するだけの士気が無く、さらに兵力を集める事もできなかった。
北条の支配拡大は金の貸し借りが力の源泉で言わば地上げ屋であり、借金をカタにした領地の巻き上げ。

遺臣が再仕官のために書いた軍記以外に、伊勢北条を誉める記録が皆無なんだよね。 後北条の呼び方もおこがましい。

まぁ北条なんて単なるこそ泥レベルだよな
関東管領山内上杉を弱体化させたのは長尾景春だし
扇谷上杉を降伏に追い込んだのは長尾能景だし
山内上杉を崩壊に追い込んだのは長尾為景だし、氏綱はその為景が怖くて媚びて贈り物を贈って拒否られたりしたもんな。
主戦場は上野や武蔵で相模なんて重視されてなかったし。
長尾一族ではもっともレベルが低い謙信ごときに苦戦するようじゃ北条はたかが知れてる。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/24(木) 14:33:09
ベトナム戦争中ベトナム軍は竹槍で飛行機を墜落させたってホント?

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/03(土) 17:03:20

真田と伊達が戦い伊達が苦戦中の時
松平忠輝が花井主水を政宗の陣に送り
朝来の戦闘で疲れてる伊達に代わり自軍が攻撃に参加したいと要望した。
しかしこのまま娘婿を投入したら確実に真田隊を撃破できるため、朝から戦っている伊達の功績を奪われる恐れから政宗は
合戦ハ今日許リニ限ルベカラズ。先以テ相控エラルベシと拒否。
結局、殿の真田隊は無事に引き上げる。
翌日の政宗は東軍の水野の先陣だった神保隊を撃ち壊滅させる。
のち忠輝改易の時に真田隊への緩慢怠慢な動きを非難されてしまうのであった。
さすがに無能政宗は素晴らしい働きをする。


108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/23(金) 12:13:38
大内再興軍を輸送した若林鎮興はこのあとも大友水軍を育てて、国東半島封鎖戦で、ついに毛利水軍を撃破してますよ。
さらに島津侵攻軍には臼杵城防衛に活躍し、朝鮮役にも出陣。

瀬戸内海の制海権を握ってた分、毛利がチートだったわりにボロボロに負けまくったアホ元就。
しかも制海権の痛感した大友側は努力して1580年あたりには大友水軍を毛利水軍と同等かそれ以上になっちゃってますw
田北紹鉄の謀反が鎮圧された頃、田原親貫が城井鎮房と秋月種実に支援されて叛乱。
毛利が支援で派遣した毛利水軍は大友の名将若林鎮興が大友水軍を率い瞬殺し周防灘まで追撃掃討戦。
毛利の大敗を知り、田原側の城が次々に開城し田原滅亡。
秀吉も大友の手法を学んだのか、来島水軍も1582年には秀吉の調略で織田に寝返る始末。

大友三老(臼杵鑑速や高橋紹運の父である吉弘鑑理)の吉岡宗歓(吉岡長増)や大友水軍育成の若林鎮興は大友の隠れた名将ですね。

ビビり臆した元就が陶と戦うのを嫌がったが、ホモ変態兄の義隆を殺されて激怒していた隆元が強硬に陶に謀反するのを主張したからやむなく。
さらに厳島合戦は因島村上と来島村上の水軍が主力であり、
地理的に因島は小早川と親しく、能島は陶と親しく
来島水軍が去就をハッキリしない時に、元就が来島水軍が味方しなければ、
我々は破滅と泣きの言葉を書いている。
陶が拒否した瀬戸内海水運において元就は大幅譲歩して来島を必死に味方にしたから陶に勝てたにすぎん。
北九州攻防戦では大友の吉岡宗歓にこの点を見事に喝破されて、陶に付いて負けた側の能島の村上武吉の買収に成功させられ、
村上武吉が見て見ぬフリをしてもらってる間に、毛利の船舶による補給ルートの破壊と大内再興軍の無事な中国地方上陸を成功させられ
水軍に頼りきる元就が他力本願で勝った厳島合戦は、
結果として大友が正確に毛利の弱点を認識し周到に謀られ毛利大敗敗走する原因を作っている。
筑前方面の通行税を取る権限を武吉にちらつかせ村上武吉を買収した吉岡は最初、
元就に謀られているのか確認で、筑豊方面の毛利軍へ送る周防の食料貯蔵地を奇襲してみたが、
武吉が動かなかったために元就は大したヤツじゃないと知り計略の成功を予見した。

大友三老が相次いで逝き、自らも余命幾許もない老将の道雪の孤軍奮闘と嘆き「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道である」
大友は毛利撃破で大友黄金期を迎えたが、それを支えた人材が相次いで逝くという悲運に見舞われた。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/26(木) 14:36:14
岩出山転封の時、その年の米沢などの伊達領での年貢収入を持っていく事を禁止され
しかも大崎葛西の乱の荒廃で翌年の年貢は1/3しかなかったと言うのに
すぐ朝鮮征伐で名護屋行きで多額の費用を浪費。
すると伊達改易の噂が流れてビビる政宗は、京の者たちにいささかも劣らずと対抗意識を燃やして、
石高をはるかに上回る動員で秀吉様に媚びに媚びて忠誠心を示す政宗公は秀吉政権発足時にすでに財政が破綻していた。

藤木氏によると
国替で政宗は本領でその年の年貢を収めることも許されぬまま、
一揆のため昨況は三分一と言われた葛西大崎領に移された
政宗は「口惜しき」「知行をすべて秀吉に返上して小姓なみに召し仕われる事より屈辱」
さらに来春は唐入りを命じられ、政宗は「もはや当家は上下てづまり」
さらに出兵では伊達は500の割り当てに対して、雑兵だけで2000余を用意し秀吉への忠誠の証にした。
さらに5月には石田氏が伊達領の戸口調査を終えて「政宗分国中の帳」をまとめた。
これに伴い伊達領では「国替風説」が流れて動揺が領国を震撼させた。
また上方との装備の質的均一化のために伊達は京での市場で調達。
豊臣政権からその援助を受けた最上や南部は堺で、一方の伊達だけは京都市場で、
しかも豊臣政権から援助として南部が兵庫に「御扶持方」、相馬なども「御扶持方一両月分」を与えられたが伊達は冷遇されたようだ。
また名護屋陣では「このたびも、蒲生殿より様々の表裏」と政宗は嘆息するなどイジメを受けていたようだ。
南部信直は「畿内ではどんな小物でも主に奉公をよくこなせば、すぐ身分を引き上げられ侍にしてくれるようで、それを見た者たちも我も劣らないように一層奉公した」ように実力本位。
しかし奥羽では「名字をチェックし縁で上に」と言う古い格式と伝統に縛られたもので「古本」「すたり物」と自重した。
邪魔な政宗は奥羽で一番最初に渡海させられた。

左遷の地たるド田舎の岩出山への移封費用も膨大な上に収入源を2年に渡り途絶えさせて財政破綻に追い詰めていた伊達に対して、国替風説は豊臣政権が故意に流して政宗を試していたと言われる。
この国替風説に恐れおののいた政宗は朝鮮出兵での割り当て兵力を大きく上回る兵を動員して肥前名護屋にやってきて
秀吉への媚び諂いを必死に示したのであった。
しかし蒲生らによってイジメられ惨めになりながら他家に劣らない忠義を示そうとした。
まさに南部信直が書いたように、小物の政宗は必死に仕えて、秀吉から上方の侍の待遇を得ようと卑屈になって秀吉の機嫌をとっていた。
これに失望した無能成実は出奔し相模国でたかが100人頭の仕事レベルの評価しかされなかったがとにかく家康から職にありつけた。
そして成実の家族は政宗に殺されたのであった。

秀吉の会津進駐のため小田原から会津までの横三間の海道と御座所の普請という大土木工事が命じられ
伊達は白河から会津までの奥州側全区間を割り当てられたほどの奴隷使役で膨大な大金の出費をさせられたのに悲惨な待遇が継続してたなんてw
いまで言えば国家事業で高速道路を作らされたようなもんだし。

文禄4年に伏見で成実夫人や家族は政宗に殺され、成実は出奔し成実記の記述もその前後から破棄されていて
現在は謎の空白になっている。
政宗が秀次と謀反を企ているのを危険視した成実が秀吉の元で独立しようとしたので政宗が激怒したとも言われている。



110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/26(木) 19:40:10
どこの家も自己正当化のマンセー編纂してるよねぇ


111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 18:09:42
筑前侵攻ではその入り口に当たる筑紫攻めでボロクソになり、次の高橋紹雲攻めを国人達から拒否されて島津ボロクソ。
立花城攻めはもはや遠くからやあやあ騒ぐ以外に手はなく、挙げ句の果てに大敗走。
続いて占いで豊後侵攻を決めるあほぶり。しかもビビり迷って二度目のクジ引きで決めるw
天正15年病になる秀吉は新田八幡宮に乱入したかららしいw
南郡衆筆頭の志賀親度(義統の愛妾一の対殿を奪いとって囲ったのがバレた)の誘導で肥後口から攻めた義弘3万7000は1000に満たない親度の子の若干20歳の志賀親次の岡城で何度となく大敗。
やむなく義弘は岡城に留まり、新納忠元を玖珠郡、新納久時を大分郡攻略に向かわせるべく軍を3つにするアホな戦力分散をする。
しかし玖珠郡の要衝の角牟礼城で森五郎左衛門1000に忠元は大敗。
やむなく標的を日出生城攻略に変更するも、城を空にして出現した帆足鑑直300が急襲し忠元まで重傷になる大敗。
久時4000も権現獄城の狭間鎮秀300の奇策の前に敗走(のち義統が狭間を謀殺)
さらに義弘は決戦地を指定した挑戦状を叩きつけた親次にまた敗れるわ、
阿南惟秀の謀略で親次が笹原目城攻めをして白坂石見が討ち死にするなど敗北続きなために三者は合流せざる負えなくなり肥後口対は停滞。
日向口から豊後に入った家久隊は栂牟礼城の佐伯惟定の前に大敗(あまりの完勝なためのち秀吉が激賞した)。
王子ヶ城の野津院衆も島津を破る活躍。
やむなく臼杵方面へ転戦したら病み寝込みながら宗麟自ら指揮した丹生島城の国崩しの前に逃げ惑うハメに。
籠城に向かない館の大友館を放棄して龍王城に義統が向かったのに釣り込まれた島津はさらに深く侵入の上、鶴崎城で吉岡長増の子の妻妙林尼の知略の前に島津3000は16回攻めて落ちずに苦戦敗走。
そのため龍王城も杵築城もまったく落ちずに島津敗走。
その間に後方の鶴ヶ城を利光宗魚に奪われ撤退補給路を封鎖され慌てる醜態。
必死に力攻めしても落ちず。
結果、島津は半数の兵を失い、残った兵2万のうち実動可能兵6000に満たなかった。
さらに仙石が鶴ヶ城救援積極攻撃を主張したが義統の無傷の8000は拒否し兵力温存。
仙石3000長宗我部3000が盲信自爆
帰り道を作るために義久は鶴ヶ城を必死に攻撃、たまたま宗魚が流れ矢に当たり落命し開城したが島津3000も道連れにした。
その間に志賀、佐伯らが次々に城を奪回に後方遮断。



112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 18:12:41
その他各地の攻防
木付城(江戸時代になり杵築)の木付鎮直は忠元を追撃し大いに破ったため勝山城と呼ばれるようになった。
逆竹城(山の城)朽網鑑康が病没する中で息子の鎮則は島津の数度の攻撃を撃破。
久保泊城では四浦の武士と呼ばれた鳩、加嶋、加島、紀らに島津は撃退される。
松牟礼城をみただけでビヒって攻めずに敗走した島津。
吉田一祐は平原坂にて島津を撃破し月山の太刀を宗麟から恩賞としてもらう。
柴田宮千代は岩瀬砦に籠城し島津兵98を討ち取り暴れまわった挙げ句に落城。
捕らえられて島津軍に引き出されるが脇差しで敵将を刺した為殺されるが、妹が兄を討った者を刺し、妹も殺される。
菅迫城の朝倉一玄は留守の火縄の計で空城の駄原城を炎上させ、反乱や失火と思って襲いかかって入城してきた島津軍を志賀らとともに包囲し壊滅させる。
帆足鑑直の妻の鬼御前は空城を自らの侍女に鎧を着せて誤魔化していたが、角牟礼城で籠城していた森鎮生に嫁いだ娘に
「昼も夜も油断せぬように。合戦難儀でも先走って自害せず、城を枕に討ち死にしなさい。未練な働きをするなら七回生まれ変わっても勘当です」と書き送った。
このように大友側は各拠点を固守して島津軍の戦力を暫時減少させつつ、撤退焦土戦略で島津の攻勢限界点まで持久策と後方遮断を行う。
島津は低脳なので力攻めと条件反射しかしないからどんどん島津兵力は低下する。
釣り野伏しかやらないので大友側は夜襲をメインに行う。

鶴崎城の故吉岡長増は豊後三老の長老にして毛利軍壊滅に功績をあげた謀略の献策立案者。
大内逆上陸作戦において村上武吉を買収して成功に導いた智者。
その名を恥ずかしめず島津を撃退した妙林尼は素晴らしい。
またその際に大友水軍を率いて大内輝弘を上陸させ、毛利の補給路を遮断した若林鎮興の功績から、宗麟が水軍の重要性を痛感し、
若林に税を免除し水軍の育成を命じ、のち田原親貫の反乱では国東半島を海上封鎖した際に支援にきた毛利水軍を大破し大友水軍を大きく成長させ、
この島津侵攻の際に臼杵や丹生島の征海権を握り島津水軍を撃退したという。
佐伯惟定は日向豊後国境の梓峠で義弘を大破した際に義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品に堂々と凱旋し、のちに佐伯肩衝と呼ばれる。のち藤堂高虎配下となる。

※訂正
鶴ヶ城→鶴賀城
権現獄城→権現岳城


113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 18:18:34

大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利隆元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘が秀包をキリシタンにした。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月、高橋救援に毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させる。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。
筑前博多は大内、少弐の争奪争い以来の最重要拠点。ここを巡り毛利と大友の攻防が始まる。
永禄11年7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。
前回の戦いのダメージから回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り大友に降伏。
秋月に続き、城井、長野、千手、麻生、宗像らも大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。
永禄12年2月、大友全軍をあげて龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し長野氏の三岳城を落城させる(毛利の味方なのにキチガイ毛利に濡れ衣を着せられ血祭りにされた)
佐賀包囲で隆信はもはや風前の灯火だったが、毛利の侵攻を聞き、隆信と和議を結び大友全軍は博多へ急行。
宝満城の高橋と合流に失敗した毛利が立花城攻め開始。
食糧が尽きた立花城は宗麟の命令で開城。
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 18:52:39
☆慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。


115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 18:59:04
伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w

本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り南部信直に「水に流してくれ」と哀願。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→57万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w


116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 21:27:18
大友強すぎ
伊達弱すぎ

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 01:58:58
気持ち悪い文章だなあ


118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/01(火) 05:17:26
伊達がいじめに耐えてあの大封を守り抜いた偉大なリーダーだとはわかったが。
長々書いて支離滅裂な文章構成になってるな。


基礎学力のなさがわかる文章だ。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/03(木) 20:26:39
戦国時代の動員兵力を語るスレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1259839519/

戦国時代板にもスレ立てました。
よろしくお願いします

120 :晒しage:2009/12/03(木) 20:27:01
>>118
と伊達厨が涙ながらに負け惜しみ発言をしてます。
もうプライド崩壊して心が壊れかけてますがw

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/24(日) 03:15:13
なぜ武田上杉の検証がされないのやら

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 17:26:33
略奪王島津って群盗犯罪集団だよな。
日本人を奴隷にしたり白人商人に売却したりしてさ。
しかも上方から来た兵に軍備の貧弱さをあざ笑われたり、
寡兵の藤堂高虎に翻弄させるし
蒲生氏郷には島津弱すぎとか言われるし
島原で龍造寺軍を討ったのはキリシタン式からの援助の有馬大鉄砲隊と2台の大砲だし。
大陸から鬼島津って呼ばれたとか言うけど、鬼って大陸だと幽霊だろ。鬼は強いと解釈するのは日本だけだしw
島津強いなんてエピソードは捏造三昧にもほどがあるだろ!

島津は検診の劣化コピーな感じですよね。
検診は小田原侵攻した際は沼田城→厩橋城を攻略し策源地として→由良の金山城や成田の忍城の岩槻城などを自陣営を招いたのち
街道を制する古河城や松山城を攻略し補給路を確保してから、侵入し小田原で北条を威嚇したのちに
今回の目的であった鎌倉鶴岡八幡宮での関東管領職就任式を北条の目と鼻の先で挙行し見せつけて帰った。
島津の場合は、家久が日向口の入口たる佐伯地域をまったく攻略できないままに放置し内部深くに侵入し苦戦。
義弘が肥後口の入口たる岡城が攻略できず、やむなく兵力を分散し玖珠郡方面へ派兵するも角牟礼城で大敗。
さらに兵力を分散して手当たり次第に攻めるも、
小田原城のような城を築いてない大友は言わば、伊豆方面で籠城したようなもんで龍王や丹生島で籠城。
結局、島津は戦略的な郡単位の面の支配が不可能どころか戦術的な点の支配さえ出来ず敵中孤立してたのであり、
背後の補給路上には敵の要害が策源地として健在し、
死に物狂いな必死な攻城戦でいたずらに島津は兵力を大きく失われて壊滅状態になってしまった。
結局、島津は秋月にさんざん利用されたに過ぎなかった。


123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 17:27:30

残念ながら家久は戦場のだいぶ後ろでビビって隠れてただけ
赤星や相良の援軍が必死に戦い、
それを有馬の陸から2門、海からの2門の大砲で援護射撃して崩しにかかり
隆信が前線が崩壊して混乱してるのを見てこいと指示しただけなのを
「隆信さまがどんどん前進しろや!」と喚いて回ったために
竜造寺軍が自殺進軍を開始し完全に敗北して隆信の周りが孤立無援になってから
急いで家久が少数の兵を派遣しておいしいトコだけ盗んだ卑怯者なだけ。
しかも有馬を助けたいだけで野心はないと大ウソまでついて善人顔してた屑な人柄。

イエズス会によると
「前線にあった島津軍は膨大で、
しかも優れた装備の隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流した」と島津が完全に怯えていたと記す。
そして後方へ逃げた島津3000。
一方の有馬5000や赤星や相良らが島津に代わり、
前線で竜造寺と果敢に激突し、
大村純忠が戦うフリをして空砲をはなって有馬に内通を開始。

陸海からの大砲の集中攻撃で竜造寺が敗走した時に
島津の川上が竜造寺兵の如く変装して
独断行動で隆信に近づき暗殺しただけ。
隆信は川上を味方の兵だと誤解していた。


イエズス会は隆信を暴君と呼んで嫌っていたが
島津に対してはデタラメを言うようなことはない。
島津の国主と書いたりしている。
また陸上2門と有馬の老臣安富徳円の船から二門の大砲を操ったのが
隆信が不当に殺すことを命じたために大村領から逃げてきた
マルチニヨというキリシタンが砲の狙いをつけ
黒奴が砲に装薬し、マラバル人が火をつけたなど細々と解説している。
もっとも跪いて手を挙げ祈祷したりする手順があったのでそれを知る人間しか大砲を操れなかった。
フロイスによると有馬氏へ天正8年に鉛や硝石を提供したりしているので大砲もこの時にもらったのではと言われている。

これにより海岸線のに展開して進軍していた竜造寺隊は崩壊逃走し
一部は中央の畦道を進軍する軍へ乱入混乱が増した。
有馬隊は柵の後ろで鉄砲により応戦していた中央の赤星隊300を守るために右前方に突出した森岳に布陣し
大砲を打ち込みつつ有馬兄弟や叔父たちとともに竜造寺の槍隊に討ってでて恐れを知らなかった。
事実、隆信戦死の地とされる場所は海岸線に近い森岳前方なのである。
つまり有馬の陸海からの大砲と有馬本隊の突撃(有馬隊自体は鉄砲は使わず)で竜造寺の左翼の海岸線の部隊は
壊滅し、その敗走は中央軍の混乱を誘い、隆信は海岸線の部隊の督戦のため移動し
そこで隆信は孤立無援状態に陥り討ち死にしたとしか思えない。
ちなみに竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲も持っていたらしい。これを島津が見て恐怖したようだ。


124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 17:28:44

ちなみに相良軍は13歳の忠房が疱瘡で病んでいたために
有馬救援軍を的場自休が代役として率いており
竜造寺相手の先陣争いでは騎下の豊永金兵衛が奮戦したと言う。

島津が攻撃に参加したと思われるのは竜造寺が敗走した後の追撃戦のみ。
これを家久の武功だなんて主張するのは基地外のやること。

豊後への家久の侵入でも佐伯地方で大敗続きでついに佐伯攻略を諦めて盲信したために補給困難に陥り、
利光宗魚が鶴賀城を奪回し完全に補給線を断ち切られ大苦戦。
たまたま利光宗魚が流れ矢で死んだからよかったものの島津兵力は半数以下までダウンさせた。
一般に軍隊において半数が戦力外になるということは部隊の崩壊を意味している。
仙石秀久の自爆がなければ家久こそ自滅していただろう。
統率面でも豊後で略奪、人さらい。さらに仙石秀久軍からの略奪を繰り返し
多くの戦利品を集めた薩摩兵は勝手に薩摩へ帰っていき、ただでさえ減少した島津軍は完全に崩壊し
ついには佐伯地方でフルボッコされるなかを敗走。
続いて岡城で封鎖を受けて肥後へ脱出不可能になった義弘が佐伯地方から日向へ抜けるにあたり、
先に血路を開いてくれたと誤解し家久を信用していた義弘は佐伯地方から日向へ抜ける峠で包囲され壊滅的な被害を受けて殿の相良軍を壊滅されながら逃走し、家久の援軍もなく死地で迷走し
義弘が命より大切にしていた茶器まで佐伯氏に奪われる始末。

つか丸尾山方面へ向かったはずの右翼の鍋島ってこの時も兵を動かしてないように思える。
出兵に反対していた鍋島はこの時、隆信を暗殺すべく敵側へ内通してたんじゃないか?
この時の鍋島の行動は腑に落ちない。




125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 17:32:09
吉岡長増

毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に
弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、
毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。
長増は輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を
筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、
この寝返りを毛利元就の策略と疑い、
8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を
襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。
大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、
さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、
10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、
同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防国に侵攻させた。
毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防.長門を攻撃できないことであった。
これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、
兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。



126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 13:27:33
たかが岩松氏の陪臣の由良泰繁でさえ、
1535年6月2日に足利義晴から御内書が下され、大鷹献上のお礼に上龍下龍の太刀一腰を下賜し、白傘袋の免許くれたし
由良側からお礼に太刀一腰、刀一、唐織物、黄金三十両がきた事に義晴が謝意を伝えてる。
その際に岩松新野伊予入道が段取りしたから義晴が伊予入道にも謝意を伝えてるし(御内書案)
岩松氏純も同日に治部大輔に任官が許され、太刀一腰、黄金五両を献上。
こんなに詳しくわかるのに捏造伊達はほとんど詳細不明ってwww

為景は古河公方高基の息子亀王が元服するので、忠義を尽くせよと関東管領上杉憲寛に命じられたので、
将軍義晴に仲介し亀王を元服させ多額の献金し元服費用一切を出した。
その功績で1528年12月12日に義晴から白傘袋を許可され息子道一には弥六郎の号や太刀を与えられた。
1529年7月から8月の間には、為景は感謝として越後上布と蝋燭を大量に献上し仲介役の幕府政所執事伊勢貞忠にも太刀と鳥目をおくってる。
伊達があまりにも不明過ぎて信憑性ゼロ

伊達が探題なら裏書き御免の書状や朱の采配や屋形号の使用実績が何でまったくないの?なんで探題が家臣を守護代にするの?守護と探題を混同するアホって伊達だけだよね。
守護ならなんで白傘袋を使用してないの?やっぱり分郡守護だからでしょ。
分郡守護なら葦名だって会津分郡守護だよダサイけど。もちろん相馬も岩城もとっくの昔に分郡守護になってるよ。
もちろん葦名とかも白傘袋は使用してないよ。
名門ならとっくに分郡守護くらいにはなってるもんだけど、名門伊達氏は南朝に殉じて滅亡しちゃったからなぁ。

伊達家ってみんな母がちゃんとわかってる人ばっかなのに晴宗だけなんで不明なの?隠蔽してるんじゃないのかね。
そういや晴宗は賤しい出の者らしく、下賤の者の手法で自分の正室を山賊のように略奪して手込めにしたよね。
この山賊行為は名門顔してた父(略奪され側室にされた農母の連れ子で実際は養父?)に対する当てつけだな。
たしか賤しい出の晴宗ゆえ、伊達正嫡に認められずに父を監禁した為に大乱に発展したんだよね。
相馬家は伊達正嫡側に立って頑張ったのを根に持って伊達を纂奪した賊臣の晴宗・輝宗・政宗と三代に渡り執拗に正義を掲げる相馬を怨みに思ってたもんね。

信虎だってクーデターされたし
為景だって引退に追い込まれた。
お隣の葛西や大崎も家臣団が暴れてたし
最上も土着化した一族が自立し崩壊
伊達だけはクーデターじゃないとかどんだけ脳内お花畑の基地外伊達厨なんだよw


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 13:35:39
政宗が輝宗から家督を譲られたころ
奥羽一の実力で75万石→最終62万石
これのどこが政宗に負けたのかと。
1577年輝宗が宇多黒木城(中村城すぐ北)の藤田兄弟を寝返らせて進出し
杉目に伊達の陣を布陣させ金山・丸森城(稙宗隠居城)を攻めた。
1581年の相馬進攻での伊達軍(亘理・名取・宮城・二本松畠山・大内・須賀川二階堂・石川)との小深田の激戦
(相馬側300騎だったが狭い谷という地の利で防戦し、血気の逸った初陣の政宗が片倉を身代わりにして敗走)
1582年の相馬の小斎城の佐藤宮内が援軍の将を斬って伊達に降伏。
小斎城には伊達軍が、城の周囲には伊達騎下の二本松畠山・大内備前親子が布陣し急遽、相馬が冥加山に砦を築く。
1583年3月に氏照から輝宗へ「奥州の伊達と関東の北条はさらに入魂すべき」と東日本を二分して統治しようとの手紙。
6月輝宗から義重へ「奥羽両州諸家のほとんどが私に申し合わせてご挨拶し織田と入魂するから奥羽にちょっかい出すな」
輝宗から岩城へ「相馬攻め出馬よろしく。織田軍がもし関東へ乱入するようなことあらば、葦名ら奥州諸家は伊達に属して戦う」
1584年5月、田村清顕(母が稙宗の娘・妻が相馬盛胤・政宗正室の愛姫は一人娘)が
金山・丸森城を伊達に譲渡しての和睦斡旋。これを機に10月輝宗は政宗に家督を譲渡(葦名盛隆が家臣に暗殺される)
このようにほとんどの諸将は輝宗の指示で動くまでになっており
そのほかに黒川氏や最上氏なども傘下におさめている。
大崎氏も伊達に頭を下げて兵を借りる始末だし、葛西も隷属。
上杉との新発田を巡る争いに敗れ失意のまま死んだ葦名盛氏死後のこれが所謂、輝宗75万石、支配圏150万石と号される云われである。
寒河江氏とか毛利系も伊達に従属してたろ。義守も義光との争いで輝宗が上山城主と一緒に干渉されたろ
義姫が輝宗に詰問したおかげなくせに。
最上の乱において里見氏の流れを汲むと言う
最上八楯の旗頭である天童氏なんかも武藤義氏らと伊達の後ろ盾を得て
最上を圧迫してるな。そこでスーパーヒーロー白鳥長久が大活躍。

佐竹に奥羽に介入すんなって手紙を書き送った輝宗の対織田構想の伊達の伊達勢力圏150万石を崩壊させ、父殺しを懲らしめるために佐竹にまで介入され
最後は要害制度と言う封権制度で伊達を初代政宗時代まで戻したアホぶりをどう評価すればw
しかも幕府にイジメ折檻された一番悲惨な借金王仙台藩祖だし。最上のように改易されてた方がマシなくらいにw
綱吉時代に自ら改易申請しても許されず生殺しw




128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 13:49:12
輝宗のころは「奥羽で一致団結して上方と戦おうぜ!」と思っていた
たしか本能寺の変の寸前くらいの時期に岩城親隆(実兄)に書いた手紙の事だと思う。
つかこの時期の輝宗って最上はもちろん大崎・葛西も勢力圏ブロックに入れてるからねぇ。
二階堂出身の葦名盛隆&白川を葦名から奪った佐竹の連合軍が田村氏と二階堂氏を巡り須賀川+郡山エリアでひたすら争って疲弊してる感じ。
そんで葦名盛隆(輝宗の姉が母で輝宗の妹を正室にしてる)と輝宗の関係を見ればわかるが従属関係なんよ。
さらに輝宗は相馬氏と和解して城を返却してもらい息子政宗には田村氏から嫁をもらってる。
もう伊達は最強最大勢力なんであながち冗談でもない。
あとは奥州探題として田村と葦名の和解斡旋をするだけで奥羽秩序は完成しちゃうくらい。
伊達って幕府内地位も高く実力も兼ね備えていた巨大勢力で
奥羽で唯一、米沢移転を期に晴宗の改革による家臣統制の中央集権化もできていた奥羽地区の秀吉ポジションだったんだよ。
しかも輝宗は温和かつ篤実で周囲から信用されてもいた。さらに輝宗から政宗に家督移譲も安定してたし
葦名と田村の和睦斡旋中だったから平和な奥羽の完成寸前だった。
稙宗の養子政策に反発した大崎も葛西も晴宗派勝組だった延長から親輝宗政権で想像以上に強固な結びつきだったんだよ。

政宗家督相続時の南陸奥の情勢
伊達 75万石+田村 9万石
相馬 6万石 (田村・岩城・佐竹の仲介で丸森城・金山城を伊達に返還し和議した結果、親政宗派に転向)
岩城 11万5千石(政宗の父の輝宗の実兄で親伊達派)
大内 3万5千石(弱小のザコ)
畠山 3万5千石(弱小のザコ)
葦名 24万石(上杉と長期抗争中で疲弊で仙道(福島県中通り)に興味なし)
二階堂 5万石(弱小のザコ)
石川 3万石(弱小のザコ)
佐竹 11万石(北条戦に全力を挙げてる最中)


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/25(日) 21:50:10
辺境の伊達毛利島津は捏造だらけ

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/02(日) 03:15:06
信長公記では北畠を速攻で壊滅させたと記してあるが
まったくのウソで
実際は大苦戦しまくりの三ヶ月間で
苦戦した末に信長の方から和睦を言い出してる。


5万対1万6000での伊勢平定戦で織田は大苦戦して和睦をした。
阿坂城では生涯唯一と言われる秀吉の怪我まであった(矢が左股に刺さった)
さらに大河内城でも織田軍は大苦戦しバタバタと将が討ち死にしまくり。
将来の織田幹部候補が大量に死んでる。
結局、和睦になり、北畠側が人質として茶箋丸を取ることになった。
そしてやってきた茶箋丸には警備として織田に寝返った者たちも含めた
尾張・伊勢500が駐屯するようにやってきた。
そして織田に内部から乗っ取りを謀られた。
北畠側はその時に和睦が罠だったと気づいた。


131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/25(金) 15:24:49
すばらしい考察スレだな。非常に価値あるスレだ

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>>413
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